一心不乱のもののふ
カモノタダユキは自分だけに見えると思いたくない。証人がほしい。
次の日、富五郎は先輩の武藤を掃除に連れ出した。
「何で俺が行くんだよう。休憩させろよ」
「話があるんですよ、ちょっと、ちょっとだけ」
「休憩室でいいじゃん。何で掃除なんだ?」
山ノ内側の細道、白いペンキにまみれた新聞紙が風に舞っている。
カモノタダユキが現れる場所。八雲神社のふもとである。
腕時計が10時を指している。マジックタイムだ。
「巳の刻ですね」
「なんだって?」
「いや、朝10時ですね」
「水戸黄門でも観たか」
武藤は道を掃き出した。
富五郎は崖をじっと見ている。武藤が手を止めた。
「トミ、なんで俺だけ掃除してんだよ」
「は、いや、します、します」
富五郎は顔を崖へ向けたまま、箒を左右にぱたぱたと動かした。
「おい・・バカにしてるのか」
「はい?」
「何を掃いてんだよ」
「何を?」
富五郎は雑草を掃いている。
「えーっと、そうですね」
富五郎は言った。
「巳の刻ですよ。カチーンって音がして、ここにゴボッと穴が開く」
「俺は帰る」
武藤が歩き出した。
富五郎があわてて止めた。
「しばし、しばしお待ちを」
「何だよお、いったい?」
穴が開けば一目瞭然だが開かない。富五郎は単なるアホウである。富五郎は聞いた。
「先輩、おととい勤務でしたよね」
「トミと同じ早番だっただろうが」
「こどもがいっぱいいたでしょ。あのがきんちょども、どうしたらいいと思います?」
「何をどうするって?」
「闖入ですよ。踏切からだだだだって、ホームへ上ってったでしょう」
「こどもだって?」
富五郎は箒を持ち上げ、柄を武藤に向けた。
「な、なんだよ」
こども達が列をなして闖入したとき、武藤は富五郎と反対側のホームで勤務していた。山ノ内に近い駅の北側である。それゆえ、武藤も富五郎と同じく闖入阻止の役割があったが、おとといは乗客が多すぎた。ふたりとも持ち場に縛り付けられ大量闖入を許したのである。
いや、許したはずであった。
「こどもなんていないよ」
「いない?」
今までに見たことがないくらい大量のこどもが、ホームへよじ登ったのである。武藤が見なかったはずなはない。
「2?30人はいたですよね。一列でだだだだだって」
「あり得ないよ、そんなの」
「あり得ない」
「そうだよ」
「だって・・」
「昔はそんな事もあったらしいけどな。のんきな時代だったんだろう。そりゃ、今も見逃してるかもしんねぇよ。ちっちゃいのがこそっと入ったりしたら、わかんねぇしな」
「こそっとじゃないですよ。だだだだだって・・」
「だから、無いって。あったら大変、大問題。大目玉だよ。停学になっちまう」
「こどもはないってことですか?」
「少なくとも俺は、一度も見たことない」
「おとといは?」
「ないよ」
「ない? あれがですか!」
武藤は箒を投げ「俺は戻る。掃除はやっとけ」と帰ってしまった。
その時である。
「おい、」
崖に穴が開いている。
富五郎は武藤を探したが、すでに切り通しの向こうへ消えていた。
富五郎は怒りを穴にぶつけた。
「どうして出てこなかったんです? 巳の刻じゃないんですか?」
「何をわめいておる」
「何を、って」
「話は聞いておった」
「聞いていたですって?」
「そうじゃ」
「・・・・」
「お前が気づいたのが今ということだ」
「先前からずっといる?」
「そういうこと」
「気づかなかったのは私の問題?」
「修行をしとらんからの、雑念で見えたり見えなんだり」
不明である。
富五郎は聞いた。
「それより、こどもですよ。あんな、だだだだだってよじ登ったのに、いないって?」
「富五郎よ」
「な、なんですか?」
「おぬしには見えたのじゃな」
「見えた? 見えますよ、そりゃ」
「生物でも無生物でも精霊にできる。あれは木の葉に呪を掛けて識神にしたのじゃ」
「木の葉ですって?」
「木の葉など無数じゃ。何人でも出せる」
「精霊ですって?」
「雑霊じゃがな」
「ざつりょう???」
「そういうこと」
「セイレイにシキガミにザツリョウ・・」
こどもたちは木の葉らしい。人を惑わすまやかしだ。とはいえ、見える者と見えない者がいる。自分は見え武藤は見えない。
そうか、と富五郎は膝を打った。自分も呪とかいったまじないをかけられているのだ。
「ははは、わかりました。わたしも木の葉と同じということですね。呪文を解いて、もう放っておいてください」
「まだわかっておらぬな。浄光明寺へ行ったじゃろ」
「行きましたよ」
「何を見た?」
風のない静かな朝、柏槇は神が宿ったごとく切り岸に揺れた。菩提の象徴として、あらためて神木となったのである。
「あれもまやかしでしょ」
「まやかしではない。釘を急所に打ち込んだのじゃ。鍼治療を知らぬのか。気脈が集まる場所へ打てば、血はふたたび巡りはじめる」
「木に血ですか?」
「もちろんじゃ。木にも血があり脈がある」カモノタダユキは言った。
「木のツボは根にある。地下から治療するのがいちばん効く。じゃが、あれは鎌倉石の切り岸に生えておっての、根を地上へ伸ばして生きておる。あれのツボはの、地中から外へ出たばかりの根にあるのじゃ。気脈の刺激で血は巡る。生気を取り戻すであろう」
「そうですか・・わかったようなわからないようなお話ですが」
カモノタダユキは言った。
「釘を打つとき幹を持ち上げる必要があったでな。槇が大きく揺れたのじゃ。手順通り。まやかしなどであるものか、うつつじゃ」
「うつつって・・外に出ている根なら、はしごをかければいいじゃないですか。なんでまた地下から」
「水はまるい器に入ればまるく、方形に入れれば方形となる。天から降れば雨となり、流れ出でて川となる。水に定まった形はない。水はどこでどのような形になれども、本燃が変わるものではないのだ。本燃は何かと問うか、富五郎」
「なんですか? そのお話、お経か何かですか・・」
カモノタダユキは富五郎との会話に飽きたのか、言葉を継がなかった。
そこに笛の音が聞こえてきた。
鎌倉に笛の音は珍しくないが、妙なタイミングである。
「見事な笛の音じゃ。一心不乱なもののふのようじゃ」
富五郎が穴から首を抜くと、雲水が竪笛を吹きながら近づいてきた。
富五郎は切り岸に開いた穴を示した。
「すみません。この穴・・」
雲水は笛を吹くのをやめ、小さくお辞儀をしたが、ふたたび笛を吹きながら、ゆっくりと歩き出した。
「あ、あの・・」
富五郎は穴が見えるか聞きたかったのだが、気がつけば穴はなく、カモノタダユキも消えていた。
穴はまやかしである。
カモノタダユキもまやかしである。
清明石はただの石である。
おしゃぶき石はただの石である。
神通力もまやかしである。
こどももまやかしである。
柏槇は本物である。
柏槇が動いたのは事実である。
犬釘は本物である。
犬釘が柏槇に刺さっていたのは、どうか?
祐子も謎だ。
なぜあの日、浄光明寺へ行こうと言い出したのか?
浄光明寺を思い出してみた。最初「カチーン」という音がした。柏槇の根本に穴が開き、ツルハシが見え、木が動き、人々が念仏を唱えはじめた。
祐子は音を聞いたのか?
穴を見たのか?
祐子は違う反応を見せていた。
ただ畏れ、ひれ伏した訳じゃない。
そおっと手を合わせていたが、自分と同じように、事の成り行きを見守っていたような気がする。
祐子に聞かねば。
しかし、もし祐子が何も見たり聞いたりしていなかったら・・
穴が開いて、カモノタダユキがいて、石と木の葉にまじないをかけて、こどもを出現させた・・こんな話、伝わるはずがない。
小林の奥さんだって、カメさんだって、
「富五郎はおかしくなった。気味が悪いから、金輪際来ないでください」
ああああ? 駄目だ。
いや、違う。祐子は違う。オーマイガー。
「確かめればよかろうが」
声に振り向くと、穴がまた開いていた。
「まだいたんですか?」
「まだいたとはなんじゃ。勤務中じゃ」
カチーンと鳴った。
富五郎の鼓膜が激しく震えた。いったん首を外に出し、耳鳴りを押さえてふたたび穴に頭を入れた。
「いきなり、やめてください。耳つぶれます」
「働いておるのだ」
「そうかもしれませんけれど、声をかけたのはそっちじゃないですか・・それはそうと、確かめればよかろうって、いったい」
「惚れたおなごじゃな」
「何です?」
「しろうとでもわかろうというものじゃ。顔に出ておる」
「出ておるって・・」
「時は熟した。今夜、忍べ。われが手を貸してやる」
「そんなの犯罪です。見つかったらどうするんです。祐子が起きていて、叫んで暴れて警察が来て・・そんなことできるわけはない。祐子はそんなんじゃない」
富五郎は反論しながらも、ハタと考えた。
カモノタダユキが手伝うというのである。
地中を移動し、ビャクシンに釘を打ち、木の葉をこどもに変える男である。
富五郎の気持ちが卑屈色に染まった。浮わつく心を抑えようとしたが、口は動いた。
「手伝うって、どう手伝ってくれるのです?」
「佐倉家の木戸を開けておいてやる。丑三つ時に行けばよい」
「うしみつどき?」
「臆病の心を封印せよ」
「・・・・」
「臥所に入り、耳元でささやけ。そして添い寝してやればよい」
「そ、添い寝」
富五郎は唾を飲み込もうとしたが、のどは引きつっただけであった。
カモノタダユキはまやかしかもしれない。
しかし、祐子との添い寝とは・・今の富五郎が想像しうる最高の幸せのカタチだ。
うしみつどき・・
富五郎はちゃぶ台で、うしみつどき、うしみつどき、と唱え、母親に「メシくらい黙って喰え」とたしなめられた。
そそくさと食い終わり広辞苑を広げた。
丑三つ時とは丑の時を四刻に分ちその第三に当る時、およそ午前二時から二時半と出ている。
「およそって、二時か二時半かはっきりしてほしいなぁ。ああ、どうしよう」
すでに午前一時半である。母親のイビキが隣の部屋から聞こえる。富五郎は目覚まし時計を抱いたまま布団にくるまり、五分ごとに時刻を確かめた。佐倉家は徒歩五分の近さである。
「二時に出かけたら二時五分に着いて、木戸を開けておくって・・・え? 木戸ってどこ?」
佐倉家は板塀で囲まれ、木戸から石の渡り、母屋の玄関へ続く。玄関を入らず脇へ回れば裏庭へ出る。こぢんまりした平屋であるが、前栽は丁寧に整えられ、池には錦鯉が泳いでいる。
「縁側の横が祐子の部屋だよなあ。二時だったら寝てるよなあ。ふとんかな、ベッドかな、やっぱ、ふとんかな。パジャマかな? ピンクかなあ、まくらもとにそおーと座って、お願いしますって一礼して、そしたら祐子が寝ぼけ声で、こんばんわ?って、では、おじゃましてよろしいです、と言ったら、こんなおふとんでよかったらどうぞ、では、おじゃまします、で、ちょっとさわってみたら、そんなのダメ、って言われても、裾が乱れて太股もあらわに、ああああ、どうしよ。ここまできたらダメと言われてもダメ、なんて、ダメって言われてほっぺをきゅっとつねられて、いたい、痛いのはつねっているからよ、きゅっ、痛い、きゅっ、痛い、きゅっ、いたい??」
「おい」
「わあああっッ、おばけっ」
母親が障子のすき間に首を突き出している。
「び、びっくりしたぞ、もう。おばけかと思った」
「母親をおばけとはなんじゃ。痛い、痛い、って何事かと思うぞな」
「あ、そう」
「あ、そうじゃないだろが。腹でも痛いのか?」
「あ、痛い、ですか。あ、そうですね。そう、痛い。痛いです。便所行くわ」
放心したように放尿し、戻ってくると母親は大きなイビキをかいていた。
富五郎は時計を見た。二時を過ぎている。
富五郎は佐倉家へ向かった。
次号へつづく