福富書房

かえる。

第1部 地底人現る ? その2。

小説「鎌倉の怪人」

2012年5月12日|松宮 宏

神通石

満員電車のドアが開く度、車内からもわっとした空気が漏れ出す。東京独特の悪臭は頭皮に張り付くポマードに汗、足の臭い、そしてクサい息の化合物だ。日本高度経済成長は工場廃棄物で大気を汚染したが、疲れた労働者の内臓から吐き出されるクサイ息も相当量、環境汚染に貢献した。

クサイ息だって? 風が吹きゃそんなものどこかへ行っちまうさ。

日本は国は小さな国じゃねえか。国民ひとりひとり、アリのように働き、その身を犠牲にし、とにかく前へ進むのだ。

小川ローザも言ってる。オー・モーレツ。俺もモーレツ社会の一員だ、がんばろう。

富五郎ごとき二十歳の若者でさえ、未来に明るい希望を持っていた時代。

しかし、クサいものはクサい。マスクが欲しい。

そんな朝にもひととき、至福の色香が匂い立つときがある。

鎌倉女子学園(通称鎌女学園)の生徒が駅にあふれる8時ごろだ。

女子高生は一分咲きの蕾。触れたら壊れてしまいそうな小花だが、芯にはしたたかな命を秘めている。蜜の甘さと青い芽の、生っぽいかぐやかな香り・・制服の胸元から乙女の体温を伴って大気へにじり出る。

富五郎はニキビも未だ消えない青春まっただ中である。下半身がうずくのは自然現象だ。腰を妙な角度に曲げたまま踏切で白い旗を振り続けることも、時として避けられない。

ピンクの頬が光る新入生、くちびるが艶やかに濡れる三年生、どっちがいいかなど比べようがない。どっちもいいのである。

傍目にもわかりやすい青春を過ごす富五郎であるが、そんな中でも富五郎を白日夢へ誘う女子がいる。

鎌女学園2年生の佐倉祐子である。

祐子は富五郎にとってはどんズバ、真正面、最強あこがれの女子なのだ。

恋い焦がれて声もかけられず、と思いきや、実は幼なじみ。

オールドフレンドである。それが恋心の扱いを妙にややこしくしている。

佐倉家は鎌倉駅前に店を構える老舗菓子屋であるが、自宅は松本家と同じ山ノ内町内で、ふたりはよちよち歩きのころからの知り合いだ。

ずっと何のことはなかった。ところが、祐子は17歳で、まったく違う存在へと変化してしまったのである。からだにまるみが出、腰を振る歩き方は舶来もののアクトレス。祐子が女として変わったのか、富五郎の心に火がついたのか・・・おそらくどっちもである。幼い心が恋に変わって気もそぞろ。富五郎の胸はきゅんきゅん鳴りっぱなし。朝晩いまだ肌寒い春にも、寝苦しい夜を過ごすことが増えている。

富五郎は気持ちがもつれてかなわないのであるが、普段通りのつきあいができることは、うれしいことはうれしい。

富五郎が、
「あじさい見に行くか」
「コーヒーでも飲むか」

と誘えば、
「いいよ」

とすぐに来る。
「おんぶしてやろうか」

と言っても、祐子は拒否しない。

祐子は一人娘だ。子供の頃から遊んでもらった富五郎を今も兄のように慕っている。富五郎はヤバい。17歳の祐子が胸の開いたミニワンピースで現れたときは、よだれがあごに垂れてしまった。

佐倉家は旧家である。山ノ内の主、小林家の親戚にもあたる。小林家は三浦一族の末裔で始祖は桓武天皇・・であるからして佐倉家も天皇の末裔、すなわち祐子は、現世に現れた姫なのである。松本家もかすかにその系譜につながるらしいが、どこでどう間違ったのか、今や松本一族の多くは農家であり工場労働者である。

佐倉家の住まいは森を背負った大正モダンデザインの一戸建てだ。松本家は三間限りの平屋である。
「こんな、狭苦しいところへ来ないでも」

富五郎の母、百恵は小さな祐子が来るたび腰をたたんで恐縮したが、富五郎は祐子をおんぶしたり肩車したり、切り通しを走り回った。

美しい思い出である。

祐子は今や、都内から見知らぬ男子が姿を見に来るほど評判高い美人である。旧家のお嬢さんであり、テニスで県代表にもなってしまった。しかも慶応大学を目指す知性派でもある。

富五郎は普通である。垢抜けず、高卒で、家に金はない。取り柄といえば、ラグビーで県大会の決勝まで行った、ということであろうか。3年でやっとレギュラーを獲った努力家で、まじめなプレースタイルはチームメイトの信頼が厚い。とはいえ、ポジションはフッカーでアンコウ型体型の極みである。

他の取り柄と言えば、お化けを怖がらない、囲碁が打てる、そんなものである。人間、誰しも探せば三つは取り柄があるらしいが、祐子の持つ麗しい長所群と比べると、富五郎の屁のような取り柄は、それが3つあろうが100個あろうが、何ほどのことではない。

富五郎のこころが焦げている。

告白?

そんなことをすれば、夢は一瞬で砕け散る。

いや、天使だって気まぐれだ。タクトをちょんと振るかもしれない。長い人生、一度はチャンスは来る。

あせってはいけない。まずは祐子を守るのだ。

駅で待ち伏せをする男子は追い立てる。声をかけようとする不届き者には割って入ってホイッスルを吹く。なんだ、こいつ、といぶかられるが、何せ富五郎は駅員である。正義は自分にある。

しかし介入がいつもうまくいくとは限らない。いつぞや、どこで知り合ったか妙な男前が訪ねてきた。 背はすっきり高く、長めの前髪を斜めに垂らしている。意を決して裕子に聞けば、慶応大学テニス部のエースらしい。
「ときどき鎌女学園のコーチに来てもらえるの。いいでしょ」

目に星が入ったような裕子の話しぶりに富五郎は胸をかきむしられる。

何が慶応だ。何がエースだ。富五郎には羊のツラをしたオオカミ、下心バリバリの野獣としか思えない。こっちはラグビーだ。押しなら負けない。

オオカミ男が裕子と並んでいたとき、富五郎は勝負を挑んだ。

ぶっ飛ばしてやればいい。ひっくり返ったところを「失敬」と抱き起こしてやれば、どっちが強い男かわかろうというものだ。勤務中ケンカはできないが、スクラムは慣れたもの。押しとぶちかましのプロフェッショナルだ。

腰を低く構えながらも背筋を伸ばし、オオカミ男の腰にどんと当てた。よし、撃沈だ。

ところが、びくともしなかった。さらさらの髪のくせに、オオカミ男は「おや」と言っただけでかゆいとさえ言わず、裕子を笑わせさえしていた。

毎朝、祐子の姿を同じ時間に見る。祐子は同級生と話していても富五郎を見つけると
「おはようございます」

と笑顔で挨拶をする。

富五郎も大きな声で
「おはよう」

と胸を張って返す。

同級生達はそんな富五郎を見て、クス、と笑う。

箸が転んでもおかしい年頃だ、そんなものだ。富五郎は淡々と職務をこなす。

しかし切ない。

あ??

富五郎は円覚寺の森に向かい、おおげさな息を吐き上げる。

北鎌倉駅の朝。出勤に命をかける労働者にあふれかえる高校生。そんなラッシュアワーさえ、勤務駅員は駅長含め5人しかいない。

カバーするホーム全長は320メートル。上り下りホーム両方だと640メートルだ。列車は15両編成。乗車口は各車両に4ヶ、4×15で60もある。上り下りが重なれば120。

乗客はまぁ普通の人間達である。

普通の人間達はまずは常識があるので、だいたいは穏便に乗り降りする。しかし人間生理の限界を超えた混雑ともなると、普通の人間がならず者化、あるいは幼児がえりをする。叫き、怒り、ときに両手両足を振り回し他人に迷惑をかけはじめるのだ。暴力沙汰にならぬよう、駅員はすばやく割って入らねばならない。ボクシングのレフリーがクリンチを分ける技術が時として必要となる。

駅員はホーム、列車、踏切、改札で起こることを、一枚のヴィジュアルとして捉える視野把握力も要求される。富五郎も2年間、場数を踏んだおかげで、数カ所同時に目を配る事が出来るようになった。富五郎の場合はそれに加え、祐子にどこぞの男子が文でも渡さないものかと目を光らせ、なかなか忙しい。

そこに、何ともややこしい存在が闖入隊である。しかも、闖入隊はアマチュアではない。闖入スキルを高め、今や玄人化している。人間、悪いことには知恵が回る。

週明け月曜日の朝。一週間で最大数の客が乗り降りする。

駅長は富五郎をホームの山ノ内側に配置を命じた。闖入隊を押さえよという指令でもある。ドアからこぼれる乗客の背中を押しながら広く視野を這わせていると、視線の端にエプロンが見えた。小林家のカメさんがはしごを抱え、背広族を金魚の糞がごとく引きずっている。

今日は許さぬ・・・富五郎は乗客を押し込むと、列車の脇から線路へ飛び降り、車線をまたいで道路へ走り出た。富五郎はホイッスルを吹いたが、そうだ、とポケットに手を入れた。

そこに清明石がある。

闖入隊の目が血走っている。ホイッスルの音は届いただろうが、すでに残り10数秒の勝負となっていた。闖入隊は走りきれると踏んだのだろう。踏切に列を成して迫ってきた。

富五郎は石をつかんだ。

そして気合い一発、右手を前方へ突き出して叫んだのである。

「はあああああっっつ!」

円覚寺の森が揺れ、エプロン隊があれよあれよと崩壊した。先頭のカメさんがはしごを抱えたままひっくり返り、そこに背広族が玉突き衝突した。

あわれな姿であった。つんのめり、カバンやメガネが飛び散り、8人が亀さんの上に小山を築いた。しかし背広族はあくまで急いでいるのだろう。ひとりひとりと立ち上がり、320メートル向こうの改札へ駆けていった。

富五郎の脇を背広族が抜けていったが、富五郎は右手を突き出した姿勢のまま固まっていた。

視線の先に佐倉祐子がいたからである。

祐子はコワイものを見たような顔で突っ立っていた。

踏切がチリンチリンと鳴り出した。祐子は突然動くことを思い出したようにからだを振るわせ、踏切を蟹歩きで渡りきると、そそくさと学園へ向かう小道を駆け上がっていった。富五郎はまだ固まっていた。

とにかく、カメ一味を撃退したことが功を奏し、この日、後続のエプロン隊は現れなかった。それなりの成果である。駅長は喜んだ。

清明石の神通力である。

カメさんには神通力が効きすぎた。ひっくり返った拍子に腰を打ち、しかも8人もの男に乗っかられ、立ち上がれなくなったからである。

富五郎は駅長にことわりを入れ、カメさんの大きなカラダをおぶって小林家へ向かった。

呼び鈴を押すと家政婦さんが出てきたが、カメさんを見ると奥へ引っ込み、すぐに小林家の奥方、篤子が出てきた。

「あらまあ、カメさん。それにとみちゃん」

篤子が、プッと吹いた。
「いったい、どうしたの?」

カメさんが富五郎におんぶされたまま手を振った。
「奥様、大丈夫です。お気遣いなく、あ、いたたたた・」
「いたたたって、どう見たって大丈夫じゃないわよ。先生呼ばないと。腰かい? なら整形外科だね。黒岩先生かね」

富五郎はゆっくりとカメさんを上がりかまちに座らせた。

篤子は大きな丸虫のようなカメさんを見てまたプッと吹き、富五郎にも笑顔を見せた。
「とみちゃん、ありがとう。でも、見ないうちにおとなになったわねぇ。駅員の制服、決まっているわよ。ついこの間まで、こんな小っちゃかったのにねえ」

いつの記憶だろう。

小林の奥さんとはめったに会わない。彼女が駅に来ることはないからだ。

お出かけは運転手付きの高級車である。用事は家政婦がするから町も歩かない。だから彼女の記憶は、自分が小さかった頃のなのかもしれない。富五郎はそんなことを思った。

それよりである。小林家は佐倉家の親戚である。ビシッとしていなけらばならない。

富五郎は制帽のふちをちょっとつまみ、会釈をした。
「私はこれにて、失礼させていただきます」
「あら、もう帰っちゃうの? そんなこと言わずに、お上がりよ。ちょうど、佐倉さん家の最中をいただいたのよ」

佐倉と聞いて富五郎はクラッと来たが、
「いえ、勤務中ですので」
「勤務中って、ま、そうだわよね。オホホ、でも、蔵本駅長でしょ。あのひとなら大丈夫だって。ラッシュも終わったことだしね、オホホ」

ラッシュって・・・出かけることもない人が、そんなことを知っているか?

請われるまま応接間へ通され、渋い茶をすすっていると大柄の黒岩先生が到着し、カメさんの腰を包帯でぐるぐる巻きにした。エジプトのミイラみたいになったカメさんが、なぜか救いを求めるような眼を富五郎に向けてきたが、カメさんは座敷に運ばれ、そのまま寝かされてしまった。

その後も富五郎は清明石で闖入隊を撃退した。

にわかに撃退率が上がったのを同僚や先輩に感心された。
「何か工夫を凝らしたのか?」

聞かれたが、穴の話から石の話まで、信じてもらえるはずがない。神通力かどうかなど微妙であったし、説明すればさらに微妙である。それに闖入は完璧になくなったわけではない。8対2が6対4になったくらいである。富五郎が張り付くとうまく撃退できていたが、365日担当するわけでもない。ホイッスルやらペンキ作戦も相変わらず続いていた。

この日、富五郎は改札当番だった。闖入防御戦術はペンキ塗りだったが、新聞紙攻撃であっさり闖入隊の勝ちとなった。

富五郎は箒を持ち、側道の掃除に出かけた。
「いたちごっこ、とは、こういうこと?さあ?、さの、よいよい」

都々逸に乗せて地面を掃いていると声がした。

「おい」

振り向くと、切り岸に穴が開いている。

いつの間に開いたのか? 今度は頭ごと入るほどのサイズである。

富五郎は箒を置き、そおっと、穴に頭をくぐらせた。

完全な闇である。闇は冷気をはらんでいる。

富五郎は闇に話しかけた。

「この前のお方ですか・・」
「効いたであろう」

闇の声が響く。
「清明石とかおっしゃった石ですか? そうですね、効いたような」
「呪がかかっておるからな」
「じゅ?」
「呪じゃ」
「じゅ、ですか? じゅ、って何です?」
「人だけではなくて、モノにも呪はかけられる」
「さっぱり、何のお話で・・」
「穴から離れよ」
「え?」
「離れよ」

富五郎は言われるまま頭を抜いたが、一歩下がるといきなり、直径20センチくらいの平べったい石がゴロ、ゴロ、ゴロと3つ地べたに落ちた。

闇の声が言った。
「次はそいつを使え」

富五郎はじっと見たが、意味がわかるわけがない。再び穴に頭を突っ込んで聞いた。
「また、セイメイイシですか?」
「おちゃぶき石だわな」
「おちゃぶき??」
「悪来る門に積めば結界となり、善は守られる」
「今度は門ですか? 門とは、どこですか?」
「場所など、おのずとわかるではないか」

カチーンという音が闇に響いた。強烈な音の波であった。
「あ、っちちち」

富五郎は耳鳴りを手で押さえ、地べたに這いつくばった。

1分ほどじっとしたであろうか。顔を上げると穴は消えていた。

富五郎は泰然と壁を見つめたが、意味は全くわからなかった。

目の前には漬物石のような石が3つ、地べたに転がっている。

次号へつづく

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