さて、年末も押し詰まってきて、あといくつ寝るとお正月?、という季節になりました。古代ハワイ社会でも日本や欧米と同じようにお正月、つまり新年という概念がありました。ちょっと横道にそれますが、メリー・クリスマスという言葉は、ハワイ語では「メレ・カリキマカ(Mele Kalikimaka)」といいます。メリー・クリスマス(Merry Christmas)という英語をハワイ語読みにあてはめた、いわゆる外来語になるわけです。また、新年の挨拶、「新年、明けましておめでとう」、英語で言うところの「A Happy New Year」は、ハワイ語では「Hou’oli Makahiki Hou/ハウ・オリ・マカヒキ・ホウ」と言います。「Hou’oli/ハウ・オリ」は喜ばしいとか、幸福なという意味で、「Makahiki/マカヒキ」は一年を、そして「Hou/ホウ」は「新しい」とか、「最近の」を意味し、「Makahiki Hou」で「新年」を意味するハワイ語です。このマカヒキ(Makahiki)というハワイ語は、古代ハワイ社会にとってとても重要な意味をもつ言葉なのです。
古代ハワイ社会の新年は、東の空からスバル(牡牛座にある散開星団、プレアデス星団、肉眼では6個の星が見える)が昇ってくる夜(11月16日ごろ)を過ぎた最初の新月の晩から新しい年がはじまりました。そして、新しい年が明けると新年のお祭りが開催されます。この新年のお祭りもまたマカヒキ(Makahiki)と呼ばれていました。
マカヒキのお祭りは、豊饒と幸福をもたらす古代ハワイ宗教、農業の神、ロノ(Lono)を讃えておこなわれていました。マカヒキの祝日は、およそ10月?11月から翌3月?4月まで、太陰暦の4ヶ月にまたがる長い休日となりました。このお祭りの期間は、クー(Kū)、カーネ(Kāne)、カナロア(Kanaloa)の神を祭ったヘイアウ(Heiau=寺院)は閉じられ、ロノの神を祭ったヘイアウのみが開いていました。
この期間、戦いやケンカはご法度となり、また、働くことも禁止されていました。そのため、農作業や漁も休みとなり、家を建てることやカヌーを建造することなども、そして、ラウハラやタパ布織りなど、家事をのぞくいっさいの労働が禁止されました。
ハワイの神々について少し書き記しておきましょう。古代ハワイ社会では数百にもおよぶ神々、および半神(デミ・ゴッド)が信仰の対象として存在しており、そのなかでももっとも位が高いのが四大神、クー(Kū)、カーネ(Kāne)、ロノ(Lono)、カナロア(Kanaloa)と呼ばれていた神々で、この四大神はハワイばかりではなく、タヒチやサモアなど、ポリネシア全域で偉大な神々として信仰されていました。ハワイへはタヒチなどからの初期の移住者が生活に必要なタロやココナッツなどの植物とともに信仰の対象として持ち込まれました。
四大神のうち、クー(Kū)は戦いの神として有名で、さまざまな戦いの前にはクーを祭ったヘイアウで生け贄としてカウワー(kauwā)と呼ばれた奴隷階級の賎民が殺され、クーに捧げられました。古代ハワイ社会では、彼らカウワーは戦いのたびに生け贄としての役割が与えられていたといいます。クーはまた、雨や漁業、呪術など29種類の神としての役割があったとされています。カーネ(Kāne)は、この四大神のなかでもっとも偉大な神とされ、日の光、新鮮な水、森林など、生命の根源をつかさどる神でした。ロノ(Lono)は、鳴り響くというハワイ語からきており、雲、風、海、農業、豊饒の神とされ、生け贄を必要としない唯一もっとも平和な神として一般庶民に慕われていました。カナロア(Kanaloa)は、海洋と海風、航海の神で、しばしばタコやイカ、バナナに姿を変え、人々を癒したという伝説があります。
さて、ロノの神のもとで行われていた新年の収穫祭の行事、マカヒキ(Makahiki)の言葉の起源を調べていくと、古代ハワイの人々がたどった歴史が垣間見えてきます。マカヒキの語源にはおもに二つの説があります。
一つは、ハワイ語のMakahiki(マカヒキ)には「一年」という意味もあります。この「一年」は、収穫を終えふたたび新たにタロなどを植えつけるといった農業がはじまる一年という解釈ができ、これは、Makali`i Hiki(マカリ・イ・ヒキ)からきていました。Makali`i(マカリ・イ)はスバル座のことで、スバル座(Makali`i/マカリ・イ)が東の空に昇った(Hiki/ヒキ)あとの新月の晩から新しい年がはじまりましたが、つまり、新年を迎える合図であるMakali`i Hiki=スバル座が昇るというところからMakahiki=新年というハワイ語になったというものです。ちなみに、「ハワイ語会話その12」でも書きましたが、古代ハワイ社会の新年の最初の月は(Makali`i/マカリ・イ)と呼ばれています。
二つ目は、ハワイアンのルーツ説で、ハワイアンはもともと初期の航海でおもにタヒチからカヌーでやってきましたが、このMakahiki(マカヒキ)というハワイ語は、Ma+Kahiki、Maは方角を表す前置詞で、「Kahiki」のKをTに置き換えると「Tahiti」となり、Makahikiは、「Ma+Tahiti:タヒチの方角」という意味になります。このように、マカヒキ(Makahiki)は、タヒチからの初期の移住者の遺言で、ハワイアン(タヒチからの子孫)がタヒチからカヌーで来たことを忘れないように、またふたたび故郷であるタヒチへと戻る日がくるようにと、ロノの神と結びつけて新年の行事をおこなうようになったというものです。古代ハワイの人々は、ロノの神は、毎年、農業を教えるために地上に帰ってくると信じられていましたが、これもふたたびタヒチへと戻るという遺言によるものと考えられています。
このロノの神の象徴として新年に飾られるロノ・マクア(Lono Makua)の白い布は航海で使われた双胴カヌーの帆をモチーフしてデザインされていました。このLono Makua(ロノ・マクア)のLono (ロノ)には記憶という意味が、そして、Makua(マクア)は祖先という意味があり、Lono Makuaでは「祖先の記憶(タヒチからの子孫)」というハワイ語になります。
ハワイの太陰暦の四つの月にまたがっておこなわれたマカヒキは三つの行事に分かれていました。まず、最初におこなわれた行事は、精神を清め、ロノの神への貢ぎ物、ホ・オクプ(Ho`okupu)が奉納されました。このホ・オクプはロノの神へ捧げるという形態をとってはいましたが、いわば一般庶民にとっては税であり、為政者、つまりアリイ・ヌイ(Ali`i Nui)と呼ばれた大酋長と行政府によってホ・オクプは徴収されました。この税の徴収は、ハワイの太陰暦、イクワー(`Ikuwā)の月にはじまりました。
イクワーの月は、コノヒキ(Konohiki)の月とも呼ばれていますが、このコノヒキとは、古代ハワイ社会の統治機構における役人の役職名で、島を統治している大酋長が支配するいくつかの行政区アフプア・ア(Ahupua`a)の区長をさしていました。コノヒキは、イクワーの月になると、彼の行政区に住む人々に大声で収穫した作物などを税として徴収する旨を告げて歩き回りました。イクワー(`Ikuwā)は、ハワイ語で「「騒々しい、大声の」という意味があります。
つづいて、ロノの神に仕えるカフナ(神官)は、アクア・ロア(Akua Loa)と呼ばれる、5メートルほどの長い棒の先に細長いタパ布や装飾品が施されているロノの偶像を持ち、いくつかに区割りされた行政区、アフプア・アを時計回りにまわりながら、島の繁栄と豊饒、人々の幸福をもたらすように祈願しながら歩きました。その後、各行政区に住む世話人たちによって各家庭からホ・オクプ(税としての年貢)が集められ、各行政区の境界に設置された石の祭壇に奉納されました。
税として徴収された年貢は、乾燥させた魚や魚介類、豚やポイドッグと呼ばれたポイで育てた犬、鶏などや、タロ、ヤムイモ、サツマイモ、ブレッドフルーツ、バナナ、ココナッツ、サトウキビなどの農作物、そして、タパ布やラウハラで織ったマット、羽飾り、木彫りの食器や各種木工品などでした。一説によると、マカヒキの期間、戦いや争いごとを禁止したのは、コノヒキが村々を回って税の徴収業務を邪魔されず円滑におこなうためだったとされています。
古代ハワイ社会における統治制度についても少し書いておきましょう。古代ハワイ社会は、いわゆる階級社会、厳然としたカースト制度が敷かれていました。まず、階級の頂点に立つのがアリイ(Ali`i)と呼ばれる貴族階級で、そのなかでもアリイ・ヌイ(Ali`i Nui)はロイヤル・ファミリーと呼ばれ、世襲制で大酋長となりました。アリイは日本の武士階級にあたり、カーライモク(Kālaimoku)と呼ばれたアリイ・ヌイ直属の大臣たちが島を治めました。カーライモク(Kālaimoku)のカーライ(Kālai)は「土地などを分割する」という意味で、モク(Moku)は「島」をさすハワイ語です。カーライモクは、島を分割した土地、アフプア・アと呼ばれた各行政区をそれぞれ統治していました。
つづいて、カフナ(Kahuna)と呼ばれる専門職の人たちが次の階級で、アリイと同等の身分が与えられていました。カフナは、一般的には神官または祭司をさしますが、位によってさまざまな専門職がありました。カフナ・ヌイ(Kahuna Nui)と呼ばれる最高位の神官は、ときには国を治めるほどの権力をもち、多くの場合、アリイ・ヌイ(大酋長)を兼ねていました。カメハメハ一世もまたカフナ・ヌイも兼ねていました。
カフナは、すべての職業の熟達者をさしていますが、いまでいう神官、医者、建築家、科学者、生物学者、教師、哲学者、天文学者、呪術師などの専門の知識や技術などに秀でた専門家であり、また、予知能力をもつ予言者としてのカフナもいました。それぞれ専門のカフナになるにはアリイ階級に属する貴族の家の子弟から知的能力と学習意欲のある子どもを選び、20年以上におよぶ英才教育と長く厳しい修業を経て、一人前になりました。カフナ・ホオウル・アイ(Kahuna Ho`oulu `AI)は農業専門家、カフナ・カーライ(Kahuna Kālai)は彫刻家、カフナ・カーライ・ワア(Kahuna Kālai Wa`a)はカヌー建造熟練者、カフナ・キロキロ(Kahuna Kilokilo)は天文・気象の専門家と呼ばれていました。
カフナにはそれぞれの位に応じた神がいて、さまざまな儀式の進め方やそれにともなうさまざまな祈り、詠唱をあやまりなく執りおこなわなければなりませんでした。古代ハワイ宗教では、カフナからカフナへ口承で伝えられた一種の密教であったといえるでしょう。マオリではトフナ、タヒチではタフナと呼ばれています。
マカ・アーイナナ(maka`āinana)は労働者階級の人々、いわゆる一般の庶民で、タロ栽培などの農業に従事したり、カヌーで海に出て魚介類を捕って生活していました。また、ときには兵士として戦争にかりだされました。彼らは、大酋長が支配する行政区アフプア・アに住み、一年に一度、新年(Makahiki)になると税金として年貢を納めていました。
古代ハワイの階級社会の中で最下層に属していたのがカウワー(kauwā)と呼ばれた奴隷階級の賎民で、マカ・アーイナナなど一般庶民の住む場所とは離れたところに住んでいました。ハワイ語のカウワーは、浮浪人とか世捨て人、家のない人をも意味していますが、彼らはまさにホームレスのような生活を強いられていたようです。カウワーは、おもに部落同士の戦いなどで捕虜になった兵隊や負けた部落の女性・子どもたちで、ときとして、ひたいや目の両側に入れ墨をさせられ、区別されていました。彼らの生活は悲惨なもので、いわゆる貴族階級に飼われていて、戦争になるとクー(Kū)と呼ばれる戦いの神が祭られた戦いの神殿、ヘイアウ・ワイカウア(Waikaua)、(ワイワイカウア/Waiwaikauaとも呼ばれていた)、またはルアキニ(Luakini)神殿に引き出され、戦勝祈願の生け贄として殺され、クーの神に捧げられました。また、定期的にカウワーによる生け贄を捧げる儀式がおこなわれていました。戦いの神殿、ヘイアウ・ワイカウア(Waikaua)のワイ(Wai)は神聖な水をさし、カウア(kaua)は戦争をさすハワイ語で、この恐ろしいヘイアウは、戦争をはじめる儀式のためにアリイ(酋長)たちによって建立(こんりゅう)されました。また、ルアキニ(Luakini)は、島を統治する大酋長(アリイ・ヌイ)が礼拝し、また、人間の生け贄が捧げられた大きなヘイアウでした。このように、最下層のカウワーは、ふだんはなにも仕事を与えられておらず、生け贄のためにだけ生かされていたようです。
新年(Makahiki)の税の徴収が終わると、一般の庶民、マカ・アーイナナたちが楽しみに待っていたさまざまな新年のお祭りの行事がはじまります。新年のお祭りにはさまざまな催し物が用意されていました。フラの踊りやメレやチャントなどの歌謡大会、そして、ボクシング、レスリング、ボーリング、ソリ滑り、戦闘用のやり投げ、サーフィン、カヌーレース、リレー、水泳などの各種競技や、また大宴会がおこなわれました。現在、ハワイ島には、ケアウホウ・ホルア国定史跡として、溶岩でできた当時のソリ滑り用のコースが遺跡として保存されています。
当時、マカヒキのお祭りでおこなわれていたサーフィン競技の様子をハワイの歴史家デビッド・マロは、彼の口述著書で次のように語っています。
「賭けたものがすべて集められ用意が整うと、サーフ・ライダーたちはボードを持ち沖の波の外側へと漕ぎだす。そして、彼らはうねりが起こる方角へと一目散にパドリングして波に入り、プアと呼ばれるゴールのマークをめざして競った」。
このように、サーフィン競技では、いまのようなサーフボードをあやつり、技を繰りだすというパフォーマンスを競うものではなく、沖から波に乗り、いかに早くゴールにたどり着けるかという順位を争う競技でした。そのため、マカヒキのお祭りでは、ほとんどの競技は競馬や競輪のように賭けの対象としておこなわれ、人々は競技と賭けごとの両方を楽しむことができました。
また、ハワイ語の新聞「ヌペパ・クオコア」には、古代のサーフィン大会の様子を次のように書いています。
「赤く染められたマロ(ふんどしのようなハワイ古来の着衣)をはいた選手たちが砂浜に整列している様子は、まるで今日の戦士といった風情である。女たちもまた同じ色に染められた腰布をまとい、砂浜に現れた。彼らはボードに乗って沖に向かい、一人の男がサーフィンをはじめると、もう一人の女が同じ波に乗る。男と女が一つの波でサーフィンするということは、いずれ彼らがセックスをするということになる」と、これまたサーフィンの競技にかんする興味深いレポートを残しています。
こうして、さまざまな競技や宴会などすべての催し物が終了すると、最後の祭事と儀式が執りおこなわれました。まず、ワ・ア・アウハウ(Wa`a `Auhau)、ワ・ア(Wa`a)はカヌーをさし、アウハウ(`Auhau)は税、つまり、ワ・ア・アウハウは税のカヌーという意味ですが、カヒキ(タヒチ)へ戻るのに充分な食べ物、ホ・オクプを載せ、ワ・ア・アウハウを海に流し、ロノの神に捧げました。
その後、新年のお祭り、マカヒキの終わりを告げる儀式がはじまります。この儀式は、アリイ・ヌイが島の統治者として引き続き統治するのに適任かどうかを試すものでした。アリイ・ヌイは、一人で海にカヌーを漕ぎ出し、戻ってきます。そして、アリイ・ヌイがカヌーから岸に降り立った瞬間、岸で待ちかまえていた兵士の一団はアリイ・ヌイに向かって槍を投げます。アリイ・ヌイは、その槍をかわし平然とした立ちふるまいをしなければ、偉大な酋長として認められませんでした。
マカヒキは、ロイヤル・ファミリーにとっても重要な期間でした。マカヒキの期間に産まれた子どもにはときとしてロノ・イ・カ・マカヒキ(Lono I Ka Makahiki)、マカヒキの記憶と命名されたといいます。また、ハワイ諸島を発見したキャプテン・クックとマカヒキにかんした逸話が残っています。
レゾリューション号とディスカバリー号の2隻の帆船を率いたキャプテン・クックは、1779年、ハワイ島のケアラケクア湾に上陸したました。ちょうどこのとき、ハワイ島ではマカヒキの真っ最中でした。そのうえ、ケアラケクア湾のそばには、ロノの神を祭ったハワイ島最大のヘイアウがあったこともあり、突然、海からやってきたこれら帆船の帆がロノの神の偶像、アクア・ロアに見えました。そのため、当時、ハワイ島のアリイ・ヌイであったカメハメハ一世やハワイの人々は、上陸してきたキャプテン・クックたちをロノの神だと信じ、丁重にもてなしました。が、ふたたび帆船の修理のために戻ってきたキャプテン・クックたちを見たハワイの人たちは、彼らがロノの神ではないことがわかり、そのことがきっかけになり争いがはじまり、1779年2月14日、キャプテン・クックはケアラケクア湾で殺されてしまいました。ちなみに、キャプテン・クックは、殺される前年の1778年1月18日にカウアイ島に上陸し、ハワイ諸島を発見した初めてのヨーロッパ人となりました。このとき、キャプテン・クックは上司であったイギリス海軍のサンドウィッチ伯爵の名前をとってハワイ諸島をサンドウィッチ諸島と命名しています。
こうして、キャプテン・クックによるハワイ諸島発見によって、長くつづいた古代ハワイ社会は終わりを迎えることとなります。