福富書房

かえる。

北の結界

北鎌倉プロジェクト

2012年1月14日|福富 弘人

北鎌倉駅のホームから見上げる小高い山の頂上。
荒ぶる神スサノオノミコトを迎える八雲神社の鳥居が見える。
立ち入れば眼下に横須賀線を見下ろし正面に台峰を望む。
境内に鎮座する「清明石」は平安時代の陰陽師安倍晴明ゆかりの石。

ここは鎌倉四方守護の要にて北の結界。
四角四境の鬼気祭、陰陽師は気象天文風水を司り闇から現れる鬼を封じた。
鎌倉の四境は「東六浦、南小壺、西稲村、北山ノ内」と吾妻鏡に侍り。

洞窟よりうち出て月も届かぬ谷戸を抜け、もののけのたぐいが現れる。
もののけとは人なりや、ひとでなしと人は言う。
闇に棲むのは大和から追われた神々の子孫。
疫病怨霊を持ち運び、とこに都の隙に狙い定めし。

うしとらの鬼門を封じるは源頼朝の役目。
まつろはぬ夷敵を鎮圧するは征夷大将軍なり。
貴種は熱き血、先祖が殺めた者の血が自身を流れる血を沸かす。
ああ恐ろしや物部守屋の足音、将門の首が、菅原道真の吐息が内耳に響く。
武家の世は鎌倉より大政奉還までの八百年。
闇もまた地下水脈のごとく息づくなり。

呪いの言葉で地上がすさび、天変地異の亀裂が生まれるその時、
封印は解かれ地の裂け目から汚泥のようにぞろぞろと闇が湧き出す。
「三千世界一度に開く梅の花 艮の金神の世になりたぞよ」
星月夜を八雲が覆い、北鎌倉駅のホームは底知れぬ闇の淵。
北の結界、異界の入り口ここにあり。

「流れ行く われは水屑となり果てぬ 君しがらみとなりてとどめよ」菅原道真
「斬られしわが五体 いづれの所にか有るらん ここに来たれ 首接いで今一軍せん」平将門
「夏草や 兵どもが 夢のあと」 松尾芭蕉

写真・清明石/北鎌倉八雲神社  安倍晴明の桔梗紋/京都清明神社

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2011年11月16日


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2013年8月20日

5 コメント

こんにちは。
トンネルの写真がありましたが、これは好好亭のトンネルの写真に、別の岩の穴を合成したものですよね?
この中央に貼られた穴の写真は何処で撮られましたか。見に行きたいのでお教えいただけたら幸いです。

2012年1月29日 18:57
福富 弘人

こんにちは。福富書房のサイトをご覧いただきありがとうございます。
お察しの通り、このトンネルは好好亭の赤門の反対側の入り口を撮影したものです。
シダ類が闇に向かって垂れ下がる様子が気に入っています。
お問い合わせにあった中央の岩は絵に描いたものです。洞窟の内側からの写真がなかなか撮れないのでミニチュアの絵を描いて二つを合わせた次第です。実際に見学できなくてすいません。
近々、鎌倉の洞窟に棲む怪人?を主題にした小説の連載を予定しているので調査と学習を兼ねて、このようなことをやっています。
「鎌倉、まぼろしの風景」のブログ、興味深く拝見させていただいています。
まぼろしの風景の想像力に乗っかって歴史の密林に分け入っていくのはとても楽しい時間です。
ところで、私の方からもひとつ質問させていただいてよろしいでしょうか。
先日、キリシタンに関するブログを読んだ後に、散歩がてら北鎌倉の八雲神社にお参りしました。
脇道から入った所に、崖に沿うように庚申塚がありますが、この庚申塚もやはりキリシタンの信仰の対象になっていたのでしょうか。
手を合わせていると、青面金剛がキリストの磔刑に、三猿がマリアたちに見えてくるのが不思議です。
人目を遮るような空間で、知らない人は入り口にさえ気づかないように思いました。
小袋谷に近く、江戸時代のキリシタンがここで祈りを捧げていても自然なことに思えてきます。
もしそうであれば、庚申信仰の人々と、キリスト信仰の人々が石碑群を共有していたことになりますでしょうか。それとも一人の人物の中に、矛盾なく重なっていたとか。
八雲神社はスサノウをはじめ、牛頭天王、クニトコタチの碑、稲荷、清明石、それにマタラ神まで隠れていらっしゃる。ことほどさように小さな敷地に多くの神様が密集しているような印象ですが、氏子をはじめ村の人々はどのようにそれぞれの信仰を使い分けていたのでしょうか。
もし何かお考えあれば聞かせてください。よろしくお願いします。

2012年1月30日 13:26

読むのが遅くなりました。失礼いたしました。
洞窟の写真、あれは絵なんですか。そうですかー。残念というか、そうですよねーというか。
北鎌倉の八雲神社(祇園社)は鎌倉の歴史が凝縮したところです。
1)あの弁天様が琴を弾いている彫刻は有名な名人の作で裏の署名をみると感激します。
2)崖に古い鳥居で土留めをしてあるのですが、それが十文字デザインの鳥居です。江戸時代の。
3)庚申講も富士講も江戸時代の流行ですが、なんのために流行ったか考えると興味深いです。
特に庚申は平安時代からあった、という言い訳がちゃんと用意してあります。ザビエル以後じゃないと。
4)観音と書いた石碑が草にうもれて東斜面にあります。シュロの木と一緒に。誰も語らない石碑です。
円覚寺にある慈母観音と関係があるのかな。観音堂もあったのかな。
5)武藤山治が銃撃された籐源治橋が眼下にあるここに、彼を記念した物があると決めつけて探した。それはあの石灯籠。東京にいる人にまで声をかけてお金を集めて、同級生で作ったというような言い訳まである。言論弾圧の時代に精一杯のことをした人々が居た。志し半ばで殺された彼を悼む大切な灯篭だと思う。「92.北鎌倉の悲劇」
6)あの庚申塔群のある場所、洞窟だったところを削って洞窟の奥の壁だけにした、ように見えます。その正面は毘沙門堂跡地。毘沙門堂にはいると奥に洞窟につながる部屋があったのでは?洞窟はお堂に覆われて外から見えなくなっていたのでは?
などなど、、。この辺で止めましょう。
信仰についてですが、あらぬ疑いをかけられないために、信心するポーズを要求された時代です。
生き残る知恵が、今の人よりも必要だったと思います。

2012年2月8日 2:07
福冨

横須賀線側の道から好好亭門をくぐり抜けた突き当たりに住んでおります福冨と申します。

2012年12月3日 20:40
福富 弘人

こんにちは福富です。
同じ名前でご近所ですね。
コメントありがとうございました。

2012年12月5日 17:02

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