福富書房

かえる。

第1部 地底人現る ? その3。

小説「鎌倉の怪人」

2012年5月25日|松宮 宏

篤姫

清明石の神通力で闖入隊は逃げた。駅長にはほめられた。

しかし祐子も逃げた。

祐子の蒼ざめた顔はこの世の終わりを告げていた。

一度なら「あれはしゃれ」と言い逃れできそうだが、毎度「はあああああっっつ!」なんぞ、頭のネジがゆるんだと思われる。

おちゃぶき石は結界に積めばいいらしい。

富五郎はひとつ持ち上げた。

おや・・小さいくせに、妙に重い。

「悪来る門って、ホームの端かなぁ」

闖入隊の足場となる場所に、三つ重ねた。

「おしゃぶき様って風邪引きの神様だよな。いや、おちゃぶきだったか? 山中稲荷のほうか」

次の日の朝。

富五郎がホームで忙しくしていると闖入隊が見えた。この日は臨時駅員もおらず、富五郎は乗客の整理で手一杯だった。しかし、今日はおちゃぶき石という結界を張ってある。入れるものなら入ってみろ。富五郎はほくそ笑みながら反対ホームで乗客を押し込んでいた。するとランドセルを背負った小学生が抜き足差し足、踏切に近寄り、頃合いをはかってホームへ突撃してきた。

するとどうであろう。小学生はこれ幸いと三段に積まれた石を踏み段に、次々とホームへ駆け上がったのである。
「・・・・」

富五郎は呆然と乗客の背中を離した。力が抜けた反作用で乗り込んだ乗客がホームに戻ってしまった。発車ベルが鳴る中、富五郎は慌てて乗客を押し戻し、なんとか列車を発車させた。

列車が東京方面へ行ってしまうと向かいのホームが見える。列を成した小学生が産卵期の鮭のように、尾びれがごとき手足をばたばたさせながらホームへ駆け上がっていた。
「何事によらず異変は報告するべし」

富五郎は鉄道職員服務規程を無視した。ばかばかしくなったからである。

富五郎は菓子折を持って小林家を訪ねた。

カメさんはあれ以来まだ寝込んでいた。というか小林家に捕らわれていた。
「直るまではここにいなさい」

と、篤子はカメさんを家に帰さず、神奈川県いちばんと評価される黒岩医師を毎日往診させたからである。

篤子は京都の東鳥居小路家から嫁いで来た、元はお嬢さんならぬお宮様である。

篤子なので篤姫。

東鳥居小路家は青蓮院につながる皇族である。青蓮院は平安時代末期、鳥羽法皇が院の御所に準じて造営した門跡寺院で、明治に至るまで門主は皇族か五摂家の子弟に限られていた。庶民にはうかがい知れぬ世界だ。

とはいえ、昭和となって四民は平等である。篤子は北鎌倉の主である小林家に嫁いだので貧乏とは縁がないが、実際は幸せなのか不幸せなのか、微妙な人生を歩む女性なのである。

嫁ぐ前も嫁いだあとも、日常は台本通りの予定調和。あらゆる危機は未然に防がれ、心底「びっくりした」というような経験がない。大きな声で笑うことなど「はしたない」と冷やかな目に押さえられ、「おもしろきこと」は未然にふさがれる。庶民が決して味わうことのない、贅沢な悩みである。

東京オリンピックを成功裡に終えた日本は、間髪入れず大阪万国博覧会へ邁進した。

何でもやってみよう。とにかく前へ進むのだ・・明るくてオープンなココロが全国的に蔓延していたニッポン。

その気分は圧倒的で、古色蒼然とした小林家にも、出入りの家政婦達の言動や立ち居振る舞いから新しい時代の、言ってみればチャラチャラした息吹が吹き込みはじめていた。

篤子とて生身の女性である。好奇心がかき立てられる。

はるよこい、おんもへ出たい。

とはいえ、永年の生活様式は行動を制御する。見栄もある。若い家政婦が身につける軽くてモダンな洋服に気がそそられる。しかしそれで町を歩きでもしたら、「小林家は貧乏になった」「篤姫も働かないとやっていけない」なんて、風評が立つと思い込んでいる。ぜんぜんそんなことはないのであるが、上流階級とはそんな人たちである。

篤子は食虫花、イソギンチャクとなっていた。居場所を決め、おもしろい出来事がやってくるのを、そのエレガントな口を開けて待っているのである。ひっくり返ったカメさんを富五郎がおんぶして連れ帰るなど、トンで火にいる夏の虫、もっけの幸い・・・非日常は篤子の餌だ。

そういうことでカメさんは、庭園に続く主客用の座敷に敷かれたふかふかのふとんに捕らわれていた。

小林家の住まいは円覚寺の山につながる二千坪の邸宅だ。雅を凝らした茶室風の数寄屋づくりで、長い庇の向こうに広がる明るい庭は平安絵巻である。床の間には、この日のために蔵から持ち出した若冲の水墨画が飾られ、青磁の花瓶には篤姫お手摘みの桃が刺されている。樹齢三百年のけやきが風を遮り、木漏れ日が届く濡れ縁には毛足の長い三毛猫が寝ている。

富五郎はその濡れ縁に篤子と並び、かれこれ二時間も座っていた。

漆の盆には芸術作品のような京菓子。茶は既に五度差し替えられている。
茶も普通ではない。篤子が幼少の頃から嗜んでいるという東鳥居小路家御用達の宇治茶である。どれもこれもたいへんよろしい味わいであるが、和菓子などひとつふたつ食べればじゅうぶんである。うまい茶とはいえ何杯も飲めるものではない。富五郎は京菓子も遠慮し、三枚目となる鳩サブレをかじった。
「とみちゃんはピージョンがお好きなのね。おほほ」
「はぁ、まあ」

できれば漬物のような塩気が欲しいところであったが、それはなかった。

富五郎はカメさんの見舞いに来たのであるが、篤姫の話が未来永劫続きそうな気配である。
「この前来たときは、まだこんなちっちゃっかったのねぇ」

子供時代へさかのぼればネタは多い。篤子は十年分を二時間掛けてしゃべった。

家政婦さんが六度目のお茶を刺し替えに来たとき、「夕ご飯も食べて行きなさいね」と誘われた。
「今日は非番でしょ。別に用はないでしょ。百恵さんには折り詰めを持って帰りなさい」

間髪入れる隙はない。ようやく、
「はぁ、まあ」

と声を出すと、
「百恵さん、いくらが好きだったわよね。ふるさとを思い出すのかしら」
「そうですね。北海道なので・・」

答えながらも、富五郎はもじもじしていたが、
「祐子ちゃんも呼びましょう。あなたたち、仲良しだものね」

最後の誘いで「はい」と答えてしまった。

篤子はすぐ佐倉家に連絡した。平日の昼間、高校生は学校である。すると篤子は学校に電話をする。ゆっくりとした物腰の篤子だが、何かを思いつくと、遊びたくて仕方がない子供に戻ってしまうのである。祐子を職員室の電話に呼び出し、下校後に来ることを約束させる。「さあさあ、忙しいこと」と、次には鎌倉山の会席料理日和見亭と電話で談判を始める。板前ごと来い、ひとりくらい何とかなるでしょ、と相手の都合もなくごり押しを始めたが、富五郎でも知っている。日和見亭はひと月先の予約さえ取りにくい人気料亭である。当日にそんな段取りができるはずがない。丁重に断られたようだ。すると一転気分を切り替え「富ちゃん、お酒もいけるわね」「私もご一緒していいかな」「飲みたい銘柄があるのよ」「肴はどうしましょうか」「酒屋さんに電話しなくちゃ」あれこれや忙しい。

篤子が次から次へ走りはじめ、思い出話は十二歳の場面で中断した。夕飯の際にはそこから繰り返すのかもしれないが、それはそれである。

家政婦さんがまたお茶を差し替えに来たが、富五郎は丁重に辞退した。

座敷へ上がり、カメさんの枕元で正座をした。

カメさんはその名の通りカメになっている。目覚めてはいるが、じっと見ていないと動いているのか止まっているのか見分けがつかない。
自業自得、悪者はカメさん、ま、そういう事である。正義の側にいる富五郎が見舞う筋合いはない、とも思うのだが、みんな元々の知り合いである。小林の奥さんもあんなひとなので、貧富の差もなくおつきあいをしている。昔をたどれば、富五郎もカメさんのはしごにお世話になっていた。立場が劇的に逆転したが、それはそれ、そして見舞いは見舞いである。そして多少の打算もある。

富五郎の心の隅にある、ちょっとだけ悪くてお茶目な部分がほほえんでいる。

小林家と佐倉家は親戚である。富五郎の善悪問わない「人類すべて愛セヨ」の姿勢が、まわりまわって祐子へ伝わり、「富にいちゃんはすごい。好き」となるような、かすかな希望がある。

叩け、さらば開かれぬ。火のないところに噂は立たず。夢のない人生は死ぬことと同じ。

恋とは、垂れてもいない蜘蛛の糸にすがるまやかしの感情である。

富五郎はやさしく、あくまでやさしく、カメさんの耳元で声を出した。
「カメさん、腰は大丈夫?」
「そうだね」

カメさんは顔を天井へ向けたまま口を開いた。
「まだまだ元気だと思ってたけどさ、ぜんぜんだめだね。まっすぐ走るくらいならいいんだけどさあ、急に止まったりすると、ギクっていっちゃうんだよ。今度は気をつけないとね」
「カメさん、今度はナシだよ」
「そうだわよね、そうだわよね、ははは」

カメさんは小さく笑ったが、すぐに痛い痛い、と顔をしかめた。

声を出すのも痛い。腰をひねった拍子に通風も出たらしい。
「大事にしてよ。じゅうぶん歳なんだからさ」

カメさんは、また「そうだよね」とごく小さな声を出した。

富五郎はカメさんに聞きたいことがあった。セイメイイシの神通力である。
「ね、カメさん。はしご持ってて、ひっくり返ったことだけど」
「わかってるってさ、もう引退するよ」
「そうじゃなくってさ」

富五郎は聞いた。
「どうしてひっくり返ったの?」
「どうしてって?そりゃ、あんたが急に現れたからさ」
「それだけ?」
「『はああああっ、』って大きな声さ。腰抜かしたよ。なんなんだい、あれ」
「声ね・・」

富五郎はそれには触れず続けた。
「お父さん達もひっくり返ったよね。そいでもって、遠い改札まで走って行った」
「そりゃそうだよ、いくら富ちゃんだとわかったって、制服を着た駅員さんの前で踏切から入りゃしないよ。ならず者じゃないんだからさ。みんな普通の人だし。ちょとね、ちょっとはお目こぼしがあってもいいかな、って程度。あんたも知ってるじゃん」
「まあ、それはそうだけど、それだけ?」
「それだけって、他に何かあるのかい?」

富五郎は懐から石を取り出し、カメさんの顔の上に出した。
「この石」
「石?」
「何に見える?」
「何って、石だわよね」

カメさんは興味も湧かないようだ。表情の無い顔で石を見ている。

その通りである。

ただの石を突き出して叫ぶとは、ただのアホウである。

ただの石だからして、子供が踏み台にしたではないか。

神通力・・そんな話ではなかった。正式の駅員がいる前で、誰も不法闖入したりしないのだ。だからストップした。抑止力を発揮したのは駅員の制服である。運悪くカメさんがひっくり返った、そういう事である。

日暮れ時に祐子がやって来た。花柄のワンピースに浅葱色のカーディガンを羽織り、唇にうすく紅を引いている。富五郎は制服のまま来るのかと漠然と思っていたが、いったん家に帰って着替えて来たようだ。大きなリボンがついた帽子、山の土道に食い込みそうなハイヒール。小林家で夕食を呼ばれるとは、そういうことなのである。ただ、着飾っている割に、祐子は玄関を通らず庭からふらりと入ってきた。気安い関係の両家でもある。

富五郎はカメさんにひと声かければ帰るつもりだったからして普段のまま、布団から出てシャツを羽織っただけの格好である。だぶだぶのズボン、ささくれた靴下にゴム草履。どちらかと言えば野良着だ。ヒゲも剃っていない。打算があるならもそっとマシな格好をしてくればよいようなものだが、昭和の若い男子など、そんなものである。

夕食はお姫様の会となった。祐子は篤姫と話が合うらしく、口元を隠しながら、からからと笑っていた。箸が転んでもおかしい年頃というやつだ。

富五郎はおかしい気分などまったく起きなかった。姫達の会話に入れない使用人、開襟シャツからはだかの胸がのぞく姿はほぼ下男である。カメさんは布団でいびきをかいてい
る。開けっぴろげで田舎くさい響きのほうが自分の世界に近い。富五郎は、そう思った。

しかし祐子はカワイイ。

あああ〜

富五郎はおちょこをあおったが中身は空である。富五郎は太いため息を吐いたが、ため息は谷戸を渡る風に差し戻され、酒臭いにおいを富五郎に張り付けただけであった。

次号へつづく

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